ゴルフ史は、受難の歴史である。
皮肉なことに、はじめてゴルフ(Golfではなく、Goffと呼ばれていた。)という文字が現れたのが、ゴルフ禁止令だつた。
1457年のスコットランド議会で、ゴルフとフットボールが、禁止されたのである。
理由は、スコットランドの食糧難とイングランドに対する戦争準備だった。
しかし、禁止令は、効果がなかったらしく、1471年、91年と2回も禁止令が出ている。もっとも、その後は、火薬の発明で弓術が不要になり、禁止令は、有名無実となってしまった。
ところが、その後、ゴルフをプレイして教会に行かぬ連中がふえたためか、1592年に、安息日のゴルフが処罰の対象とされた。
近世になってからは、戦争による大競技の中止があったに過ぎない。
残念ながら、日本のゴルフ受難史は、世界でも冠たるものである。
初期のゴルフ場は、英国人の余暇のために生れたもので、日本人ゴルファーは皆無だった。六甲山の神戸ゴルフクラブ(1903年)は、数人の日本人の会員はいたが、名前だけだったようだ。
パブリック・コースも1912年とかなり早期に生れているが、これは、東洋各地から集る外国人を対象として生れたものである。(成績が悪く2年後には会員制となった。)
その内に、日本人も。米国や英国でゴルフを習い覚えた人々が帰国してゴルファーになっている。
ゴルフが盛んになるにつれ、目立ち始め、だんだん、風当りが強くなって来る。ゴルフ亡国論が唱えられ、主に右翼が、イヤガラセを始める。
1924年、程ケ谷カンツリークラブからの帰途、川崎肇、大谷光明氏等が、壮士風の暴徒に襲われ、川崎氏は片眼を失ってしまった。英米のゲームであり、一部特権階級が、ぜいたくな遊びのために、広大な土地を使うことが、反感を呼んだのである。
新開雑誌も、ブルジョア遊戯ときめつけ、ゴルフ亡国論が堂々と有名な評論家、学者によって展開されたのである。
1929年、福岡県は、ゴルフクラブ会員に年20円の税金を決議しているが、日本でのゴルフ税の第1号である。
1933年、軍国主義が勢力をつけ始めていたこの時期に静岡県が、川奈ゴルフに対し、入場者1名から1円を徴収しようとした。川奈は、大倉喜七郎氏が、世界に伍すクラブを目指し赤字を自分で補填していたところである。大倉氏は、頑強に拒否し、遂にゴルフ場閉鎖という強硬手段でこれに抵抗した。
大倉氏は世界一流の人々と交流をもつ国際人であり、明治生れの気骨ある抵抗に静岡県もついに白紙撤回した。
しかし、この後、日本は、戦争に向けて大きく方向転換して行ったのである。
1939年、各ゴルフクラブに対し、入場料の10%の税金を賦課することになった。
詳しくは、不明だが、戦争協力費だとか、様々な言訳を押しつけたのだろう。
翌年には、20%に増税され、1942年には50%、1943年に90%、終戦の前年には150%という大増税であった。
戦争が終ってゴルフ税は消えたのだが、自発的な税が顔を出す。当時、石井光次郎氏が、衆議院議長であり、日本ゴルフ協会会長でもあった。
副会長野村駿吉氏は、日本の将来は、地方の発展にあると考えられていた。野村氏は米国の生活が長く、中央集権ではない社会制度を知悉していた。(今になっても、地方自治の育成は、卓見だったことがわかる。)
地方自治の育成のためには、財源が不可欠だ、そのために、ゴルファーが、1回100円づつ拠金しようという意図があった。
100円は、確かに大金ではなかった。しかし、このボランタリー・タックスは、いつの間にか法制化され、ゴルファーの手から離れ、大きく成長して行くのである。
野村さんの好意ある決断、地方自治を促進するための財源をゴルファーが善意をもって考えついたことなどは、今になると、誰も知らない。
税金をとっている役人さえも、もちろん、そのいきさつを知る筈もない。
急な夕立をしのがさせるため軒下を貸したら、いつの間にか、床の間を背に座りこみ、いくら出せという無頼漢のようなものである。
数十年間もかかっていたゴルフ用品の物品税は、幸にして消えたが、そもそも、運動用具に30%という他の国では考えられない高率の税自体が変則だったのである。
このように、日本のゴルフ受難は、世界でも実に珍しい性格をもっている。私たちは、日常生活での1人あたり占有面積が低いから、せめて遊びでは、広いところに行きたいと思う。しかし、ゴルフをしない人々からすると、この狭いところで、何がゴルフコースだということになる。
現在の農薬問題、環境問題でゴルフ場が非難されているが、その根底には楽しそうなゴルファーの姿さえも見たくない人たちがいると思えるのである。
|