1932年(昭和7年)は記録的な猛暑だった。日本に新しいゴルフ・コースが次々に誕生し、ゴルファーがそれまで見たこともなかったエバーグリーン(西洋芝)の鮮やかな緑に喜んだ矢先のことである。
そもそもこの西洋芝導入は1930年〈昭和5年)12月に、英国からチャールス・ヒュー・アリスンが来日し、踏み切らせたように思える。ただし、それを受け入れる土壌が日本側にあったことも事実だった。1928年(昭和3年)、東京ゴルフ倶楽部の駒沢コースで、相馬孟胤子爵が冬季の枯れた高麗芝のなかに緑鮮やかなエバーグリーンを見つけ、帝大植物教室で鑑定、確認して日本の気候風土での可能性に胸を踊らせていたからである。この種子は1914年(大正3年、駒沢の開場年)に岩崎小弥太が英国から持ち帰り、コースに蒔いたものの生き残りだった。相馬はその拾った芝をナーセリーで養生し、日本での可能性を研究していた。
幸いにして、米国ではヴァージニア州アーリントン(東京周辺と気候条件が似ている)で芝生実験を開始し、1920年にはUSGA(米国ゴルフ協会)のターフセクションがパイパー、オークリー両博士を中心に農務省の協力を得て発足していた。
相馬は東京倶楽部朝霞コースで使用する芝生を決定するのに、過去5年間の気象条件を米国に送り、ココス・ペントに決定する。ラフ用の芝にはオーストラリアからフェスキューを取り寄せるといった知識もあったのだから、驚ろきである。
アリスンとペングレース
霞ケ関カンツリー倶楽部は東京倶楽部の移転先候補地として藤田欽哉を中心とした人々が土地を見つけ、打診、1928年(昭和3年)地主の発智庄平の熱心な勧めで独立したクラブとして発足した。翌年の10月6日に東コースがオープン。ハウス、1万5千円、コース造成10万5千円だった。予想以上の会員数を得たので、1930年(昭和5年)に西コース造成案が提出された。財政的に余裕のあったせいか、本グリーンにクリーピング・ベントを使うという画期的なものだった。
アリスンが朝霞コース現地視察のついでに霞ヶ関東コースに立ち寄ったのは12月16日だった。藤田欽哉の設計を十分に評価しながらも、いくつかのホールに改造案を申し出ている。この時、同行した米国人、G・ペングレースの存在は大きかった。アリスンが米国から招聘したシェーパー兼スーパーバイザーだった彼はアリスンが1931年2月末に離日した後も日本に残って、朝霞、霞ヶ関の現場造成指導をしたからである。
あくまで憶測だが、昭和初期の日本のコース関係者はペングレースの仕事ぶりにアリスン以上の影響を受けたと思えるのだ。
例えば、井上誠一。伊東の温泉で病気静養中、英国から来日中のアリスンの富士コース設計の話を開き、コース設計に興味を抱き始める。そしてその後、霞ヶ関西コースの現場監督として、藤田欽哉のアシスタントを務める時に、ペングレースの仕事ぶりに遭遇するのである。その後の井上誠一にとって設計・造成の基礎的知識はここで吸収されたと言っていい。
その他にも、ペングレースの仕事を見学に来たのは伊藤長蔵、峰太刀造、上田治といった人々も含まれている。
つまり、アリスンが近代コース設計方式を日本に導入したとすれば、ペングレースはその具体的造成技術を初めて日本に披露したことになるのである。
猛暑による西洋芝の全滅
それでは、アリスン以前の日本のコースはどのように造られたのかを簡単に触れておこう。
1923年(大正12年)、米国人プロのウォルター・フォバーグが設計した程ヶ谷カントリー倶楽部を唯一の例外として、ほとんどはきわめて原始的なものだった。造成方法も手探りで、造園業者が“ゴルフの権威者”の指導を受けたに過ぎなかったようだ。
程ヶ谷以後をオープン年度別に列記すると、
1924年(大正13年)
鳴尾 設計/G・クレーン、西村貫一
1925年(大正14年)
茨木 設計/ダビッド・フード
1929年(昭和4年)
猪名川 設計/H・クレーン
霞ヶ関東 設計/藤田欽哉
という具合である。
そして、アリスンが日本の鎖国時代に開国を追った黒船ペリー提督のようにカルチャー・ショックを与えて離日した後、日本のゴルフコースは大きな波乱を迎えることになる。
1931年(昭和6年)
霞ヶ関東コース アリスン案による改造
3月 西コース着工
相模 仮オープン 設計/赤星六郎
朝霞 グリーン播種開始
1932年(昭和7年)
5月1日 朝霞オープン
6月19日 広野オープン
8月 相模、朝霞、広野、霞ヶ関西のペントグリーンが猛暑のため全滅
1935年(昭和10年)
霞ヶ関西コース 本グリーンを高麗に、第2グリーンをベントに改造
1936年(昭和11年)
2月26日 大雪のため霞ヶ関東の高麗グリーンに大被書
1937年(昭和12年)
6月 霞ヶ関東コース第2グリーン完成
12月 使用開始
ここに日本の必要悪とも言える第2グリーン誕生の発芽があった。
朝霞や広野など、世界に匹敵するコースとエバーグリーンの誕生に酔いしれていた日本人ゴルファーに、まるでタイタニック号が氷山に激突して沈没したかのように、真夏の猛暑が襲いかかり、泡沫の如く消え去ってしまったのだ。新しい種子を輸入し、高価な散水施設なども無駄になった。
高温多湿な日本の気候に、西洋芝はやはり不可能だったのだろうか。
ちょうどこの年、米国ではオーガスタ・ナショナルが完成しているが、南部のこともありグリーンはジョージア・バミューダを使っている。ポーアンヌ(スズメノカタビラ)にやられてベントに切り換えたのは15年ほど前のことである。
米国南部(九州以南に相当)では1960年代半ばまで2グリーンのコースが存在していたとR・T・ジョーンズ・ジュニアが話してくれた。
ということは1930年代初頭、相馬孟胤が資料を揃えて米国へ問い合わせてはいても、本当の解決策はありえなかった。当然、芝生の開発も現代と比較にならなかった。グリーン構造にいたっては砂を使いはしたもののUSGA方式、パーウィックともに存在していなかったからである。
井上誠一の歴史的意義
霞ヶ関のグリーン全滅に対する反応は早かった。西コースを閉鎖し、高麗芝の第2グリーンに踏み切った。これはあくまで仮の姿だったが、ともかくプレイできる態勢にしたのである。
この頃から井上誠一の指動が本格化していく。1935年(昭和10年)、西コース本グリーンを高麗とし、第2グリーンをベントとしたのである。だから、日本における2グリーンの元年はこの時と考えて良いだろう。
藤田欽哉はこの時の井上誠一の仕事振りに感銘した。1936年(昭和11年)、那須ゴルフ倶楽部のコース造成が終わっていた頃、藤田設計となっているが、「井上さんに任せきりなので、設計は井上さんと言っていい」とまで言っている。
この年の2月26日は、例の“2・26事件”で、東京は大雪と軍部クーデターで大騒ぎになった。猛暑の次は寒波である。
霞ヶ関東コースの本グリーンは高麗芝だったが、雪が50日も敵けずに大被害を被る。
高麗芝は寒さに弱い。東北地方では2年もすると高麗芝は消えてしまう。だから、50日も雪が融けなかったのだから、東コースは大被害だったろう。
翌1937年(昭和12年)には東コースにも第2グリーンを造り、12月から使用開始している。
ちなみに、その“2・26事件”の3日前の2月23日、エバーグリーンを追求した情熱の人、相馬孟胤が急逝する。朝霞で最後までエバーグリーンを守ろうとした彼の死によって、夢のエバーグリーン・コースは日本から消え去った。と同時に、日本でのベント・グリーンは不可能という観念が古い人々の間で固定してしまった。何をしても日本の自然には勝てないという思い込みはかなり強固なものになった。事情を知ると、ベント不信になるのも無理からぬことだった。
井上誠一は理論派であり、ゴルフ追求も純粋だった。だから、2グリーンが理想とは考えてはいなかったに違いない。皮肉なことに井上に与えらねた初めての試練がベントの全滅、そして2グリーンによる解決となってしまったのである。だから、那須のワングリーンによる設計は彼が全力を投入し得た作品だったと思える。
この昭和初期、日本人でコース設計した人々は、赤星四郎、六郎兄弟、大谷光明、井上信、白石多士良など、ゴルフ界で活躍、指導的立場のアマチュア・プレーヤーで、設計の専門家ではない。だから、井上誠一の出現は世界のコース設計史からすると、英国のハリー・コルトとよく似ている。
コルトはプロ出身ではない初のコース設計家であり、しっかりした設計図を考案、植栽プランもたてた。日本に来たアリスン、そしてアリスター・マッケンジーなど、後に続く設計家を育てた。近代コース設計界のゴットファーザー的存在だったからである。
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