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日本のツー・グリーン事始め 金田武明
 

ツー・グリーンのコースが存在するだけでなく、公式競技の場として市民権をもっているのは、ゴルフ先進国の中では日本しかない。

確かにツー・グリーンの存在理由はある。Transitionゾーンでは、寒冷芝には夏の高温多湿がきつく、コーライ芝の休息期間(秋から春)が長過ぎる。

一つのグリーンをベント芝にして苦労するよりは、二つのグリーンを季節に合わせた方が楽である。ツー・グリーンにする意図は、パッティング・クォリティーの高いグリーンでのプレイを常に確保することである。

R.T.ジョーンズ・ジュニア氏によれば、米国南部(Transition Zone)でも、1960年代まではツー・グリーンが存在したという。リクリエーショナルのゴルフなら、ツー・グリーンは合理的な選択になり得るが、公式競技の場となると話は別である。

ツー・グリーンの弱点は、グリーンに近づくほど狙いが広がってしまうことである。二つのグリーンが横並びになると、美観をそこねること大というしかない。しかも、グリーンを外したところからのリカバリーショットは、どこへ行っても同じ種類のボールで攻めることになる。単調なゲームのくり返しをゴルファーに強要してしまうのが、ツー・グリーンである。

グリーンの管理上からは、ツー・グリーンはあり得るが、ゴルフのプレイの内容ということになると問題外である。

日本式と米国式

日本ではツー・グリーンが発達し、米国ではグリーン構造そのものを根本的に研究した。この二つの国の考え方は妙な例えだが、蚊の対処でも大きく異なる。

日本では、蚊に対して美しい蚊帳を考え、蚊帳の装飾に贅をこらした。米国では、蚊そのものの発生原因をつきとめ、水たまりの処置、殺虫剤を開発した。

日本のツー・グリーンに対する考え方は前者であり、米国は60年の年月をかけてUSGA方式を開発した。しかしその後日本のゴルフ界もUSGA方式の導入によって、よりよいグリーンが存在するようになった。試行錯誤の後、グリーンの構造、砂及び素材の選択などが適していれば、高温多湿の香港でさえ、ベント芝が成育するようになったのは驚異的である。

相馬子爵のエバー・グリーン研究

1936年に日本のエバー・グリーン研究は中断され、本格的研究はようやく1980年代になって再開されたように私には感じられる。

約50年近くも、日本のエバー・グリーンの研究は静止した状態だったように思えるのである。

戦前のエバー・グリーンといえば、相馬孟胤子爵の名をあげねばならない。相馬氏のように芝生に傾倒した人は、世界のゴルフ史の中でも珍しい。

1920年代には、ゴルフ好きが嵩じて駒沢(当時の駒沢は、田園の中にある不便なところだった)へ居を移している。

1929年、駒沢にあった東京ゴルフクラブのグリーン委員長を仰せつかった相馬は、以前にもまして、コース、特に芝生に責任を感じ始めた。

コース内を歩き回って芝を観察するのが相馬の日課だったようだ。そして、その年の11月末、枯れた芝草の中に常緑芝をみつけたのである。相馬は「砂漠の中でオアシスを見つけたような喜びだった」と言っている。後日わかったことだが、1919年頃、岩崎弥太郎男爵が、英国から洋芝の種をとりよせ、何となくあちこちに播いた芝生の生き残りだった。

相馬は、その常緑芝を採取し培養し、翌年その種子を帝国大学植物学教室で鑑定を受けた。これが、日本でのエバー・グリーン研究のはじまりとなった。

偶然にも、この年(1930年)12月1日にチャールス・アリスンが日本に到着した。目的は、移転する東京ゴルフクラブ朝霞コース設計のためだった。

アリスンは、ハリー・コルトの名代として来日し、朝霞の他に、広野G.C、川奈・富士コース、霞ケ関C.C東コース改造等を手がけ、滞日わずか2カ月の内に精力的な仕事を終え、スーパーパイザーの米人ペングレースを残して離日した。

ペングレースの仕事ぶりは当時の日本の技術者に大きな影響を与えたに違いない。

日本のゴルフ界に造成技術はペングレース、芝年に関しては相馬子爵が大きなサポートとなっていた。

霞ヶ関C.Cの誕生

1928年、藤田欽哉氏は、川越の地主である発智庄平氏から土地利用の相談を受け、行く先を探していた東京ゴルフクラブに打診している。結論は、交通不便として断られ、霞ヶ関C.Cは独立したクラブとして発足した。(1922年開場の程ヶ谷C.Cも同じだった。)

そこからの霞ヶ関のテンポは速い。1929年10月6日東コースのオープンに漕ぎつけている。土地代がないので、総工費12万円。この中にハウス建設費1万5千円も入っていた。もっとも、これは、鹿島精一(鹿島建設)、清水楊之助(清水建設)両氏の協力があったというのだから現在の常識では考えられない。

霞ヶ関・西コースのベント・グリーン

霞ヶ関C.Cは予想以上の会員数を得たため、1930年には西コース造成案が提出され、しかもクリーピング・ベントのグリーンという画期的なものだった。

前述のように、この年の12月1日にアリスンが来日し、朝霞の設計と平行して12月16日に霞ヶ関・東コースを訪れている。そして、無料でもよいからと改造を申し出て、その結果、9、10、14、17、18番が31年2月末に改造された。

ペングレースが陣頭指揮したことは間違いない。相馬の知識は高かったが、現実には、霞ヶ関・西コースのペントグリーンが、初の本格的な作業だったと考えられる。

1931年、西コースの工事開始は3月(播種は9〜10月?)である。東京ゴルフクラブ朝霞コースの播種は9月10日。霞ヶ関・西コースと朝霞コースのエバー・グリーン採用は、相馬氏の主導だったことが興味深い。

相馬は芝生の種類を決定するにあたり、過去5年間の気象条件をアメリカに送り、リコメンデーションを依頼している。結局、このほかにも、駒沢での実験の結果を考え、慎重に種子を選んでいる。

アメリカでは、米国ゴルフ協会がパイパー、オークリー両博士の協力のもと、農務省の支持を得てグリーン・セクションを創立したのが1920年。そして、1929年までに、芝生実験場が全米に10ヵ所も生まれていた。

相馬は友人と連絡をとり、こうした米国の実績を知悉していたから、可能な限り力を得ようとした。

因みに、米国でのコース数は、1916年742、1929年5648と急成長していた。

日本のエバー・グリーン元年

1932年は、日本でエバー・グリーンが美しい姿を見せ、ゴルファーを魅了した年だった。しかし、残念なことに、エバー・グリーン元年は、その夏の酷暑のおかげでツー・グリーン元年にもなってしまった。

1932年
 東京・朝霞5月開場   8月ブラウン・パッチ発生
 霞ヶ関(西)6月完成   8月全滅
 広野   6月19日開場 8月間題発生
 相模   4月グリーン播種 8月全滅

朝霞コースは、ブラウン・バッチが発生したものの、相馬の献身的なる努力のおかげで若干延命した。

しかし、霞ヶ関は、ベントグリーンを直ちに閉鎖し、西コースに高麗芝の第二グリーンを造成するのである。

朝霞コースは、1934年にコーライ芝のサマーグリー
ンを造成したが、相馬氏は断腸のおもいだったようだ。

相模は8月にグリーンが全滅すると、すぐに自生芝、絹芝を養生して予備グリーンをつくり、ナーセリーでケンタッキー・ブルーの育成にも成功した。

1935年になって、霞ヶ関は、本グリーンをコーライ芝とし、第二グリーンをベント芝というツー・グリーンのパターンをつくりあげた。(東コースは、コーライ芝のワン・グリーンのままだった。)

1936年2月23日 相馬氏の急逝

エバー・グリーンの大黒柱、羅針盤であった相馬氏の急逝は、ゴルフ界にとって大きな衝撃となった。しかも、その3日後、2・26事件が起こった。

若い軍人によるクーデターは失敗に終ったが、軍国主義の台頭はすでに顕著だった。

社会環境はゴルフにとって悲観的なものに急変して行く。このクーデターが大雪の中だったことは、私も記憶しているが、霞ヶ関C.C東コースの雪は50日間も融けなかった。暑さに弱いペント芝だけでなく、寒さに弱いコーライ芝を経験することにもなった。

Transitionゾーンの難しさを急に経験したのが、日本のゴルフ界だったのである。ペントグラスに対する自信のなさは、この当時の苦い経験から生まれたのではないだろうか。

井上誠一氏の理想と現実のはざま

霞ヶ関のクラブ史の中で1954年、西コース設計を井上誠一氏に依頼とあり、さらに、1955年の予算の中にベント床300万円、グリーン422万円、ハウス9,380万円、という数字がでている。どうやら、この頃に、戦後の西のツー・グリーンが井上氏によって実現されたのだろう。(ちょうどこの期間、私は、米国へ留学していたので、全く知らなかった。)

井上氏は、注意深い方で、1932年のペントグリーン全滅を経験されておられたから、ツー・グリーンを採用なさったのだと思う。しかし、井上氏の理想は、もちろんワン・グリーンだった。

幸いにして私はニューヨークからイギリス、デンマークを井上氏とご一緒する機会があって、帰国後もよくお話を伺ったが、英米のコースが羨ましいと言われていた。

その理由は、様々なコースがあり、それぞれに特色をもっていることだと言われた。

米国は外から見れば大きな民主国家だが、生活すると多様化された社会構造に驚かされる。井上氏は、コース設計の立場から、米国市場のセグメンテーションを感じられたのだと私には思えた。

ゴルファーを選べるということは、何よりも羨ましいと何回も繰り返しておられたのである。

井上氏の苦肉の策は大洗G.Cだと思う。ベントと高麗を一つのグリーンらしく造り上げられたからである。

ベントは夏に弱いという説は嘘ではない。しかし、しっかりしたグリーン構造と高度なメンテナンスという二つの条件が揃えば問題はない。事実、米国の高温多湿地帯でも、ベント・グリーンばかりでなく、フェアウェイやラフにブルー・グラス、トールフェスキュー、レッドトップが広く採用されているからだ。

USGA方式が正式に発表されたのは、1960年である。そして、1970年になって、ようやく完成に近い方式となった。アメリカに初のテストグリーンができてから60年の試練を経ての結晶だった。残念ながら、この近代技術を井上氏は、日本で実現される機会がなかった。

現在、井上氏がご存命なら何のためらいもなくベントのワン・グリーンになさったろうし、そうであったら、世界に誇る日本のコースが生まれていたに違いないと信じるのである。
(本塙はGCA JOURNAL No.5に掲載されたものを再録しました)

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