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GCA JOURNAL No.11
日本のコース設計史、その系譜と思想 西澤忠
 

これまでは、「コース設計の核心はストラテジー(戦略性)である」とする観点から欧米の戦略的設計思想を歴史的に辿って来た。

そこで、今度は日本の設計家の系譜と思想を検討してみたい。

日本のゴルフの発祥を『神戸ゴルフ倶楽部』の六甲山山頂に造られた4ホールとすれば、すでに100年を越えたことになる。アメリカのニューヨーク・ハドソン河畔に『セントアンドリュースGC』がジョン・リードの手で造られたのとはわずか13年遅れの差だ。どちらも、異国に来た英国人の郷愁から生まれたコースで、手造りのプリミティブなものであった。

そのアメリカが自国の設計家で後世に残る一流のコースを設立するようになるのにはチャールス・B・マクドナルド(C. B. Macdonald)の出現を待つ20年余の時間が必要だった。英国リンクスを研究し名ホールをコピーした『ナショナル・リンクス・オブ・アメリカ』(National Links of America)の完成が1911年だからである。マクドナルドは富豪の家に生まれた英国仕込みのアマ・ゴルファーで、全米ゴルフ協会と全米アマ選手権設立にも尽力した。だから、設計は余技で、『イエール大』(Yale University)『ミッドオーシャン』(Mid-Ocean)『グリーンブライヤー』(The Greenbrier, Old White)などの設計料は1ドルたりとも受け取っていない。

では、日本の場合はどうか?

大正13年(1924年)、日本ゴルフ協会の設立のため集まった当時の倶楽部代表は東西7倶楽部。『神戸』『鳴尾』『舞子』『甲南』『程ヶ谷』『東京』『根岸』であった。滞日中の英国人とその影響でゴルフを始めた日本のエリートたちがゴルフ倶楽部を組織し、コースをそれぞれの手で造成した結果だった。ただし、設計を任された人間は英国人メンバーかプロとうのが常識だった。つまり、計技術や知識のないメンバーに推薦されたトップ・アマチュアかプロ・ゴルファーが原始的な設計をしたものが大半だった。事実、『東京・駒沢』の設計を任されたG・ブレディはアイルランド人でキャプテンを務めていたアマチュアだし、共同設計者のF・コルチェスターは第2回日本アマ・チャンピオンだった。英国がそうだったように、ゴルフ技術の奥義を究めたチャンピオンにコース設計を一任するのが無難だし、コンセンサスを得やすかったのだろう。

その昔のスコットランドでいえば、全英オープン・チャンピオンの老トム・モリス(Old Tom Morris)に始まりハリー・バードン(Harry Vardon)に至るまで、コース設計はプロの副業でもあった。北スコットランド『ドーノック』(Royal Dornock)出身のドナルド・ロス(Donald Ross)にしても、もしアメリカへ出稼ぎに移民していなかったら世界的に有名な設計家にはなれなかっただろう。『茨木』を設計したデビッド・フード(David Hood)もスコットランド人で、フィリピンでレッスン・プロをしていたくらいだった。

英国の設計史を見ても、海辺のリンクスランドにコースを造成していた時代には本格的な土木工事は必要なかったのだろう。トム・モリスたちの仕事は“日曜の午後の散策”と呼ばれる設計作業で、ティとグリーン位置を決めて小旗を大地に刺して歩くだけで済んだ。
それが、コース適地のリンクスランドがなくなった19世紀の終り頃、内陸のインランドにコース造成するようになって、初めて設計技術が必要になる。ここに登場するのがハリー・コルトやマッケンジーである。ケンブリッジ大卒のインテリで、ともに『セントアンドリュース』(St. Andrews)のメンバーだった二人はリンクス・コースの長所と欠点を研究し、コース設計の近代的技術を確立した開拓者でもあった。偶然にも、自分なりの設計術をまとめた著書を1920年に出版、(「GolfArchitecuture」by Alister Mackenzie, 「Some Essay on Golf CourseArchitecuture」by Harry S. Colt & Charles H. Alison)二人は別々に欧米でコース設計家として活躍する。実測したコンター図面を作り、灌漑施設、植栽、土質調査、芝草の選定など、コース造成に必要な専門技術が世界に流布する始まりである。

実は日本のコース設計もこの時代の波に洗われる。

関東の名門を自負する『東京・駒沢』が新天地の埼玉県朝霞にコースを新設するとき、これまでの素人設計ではなく、本場英国の専門家に設計を任そうとする機運が盛り上がる。その画策をしたのが大谷光明で、京都西本願寺の門主の座を蹴ってゴルフ界に貢献した日本アマ・チャンピオンだった(1922年)。当初はハリー・コルトを招聘したかったのだが、高齢を理由に断られ、弟子筋のチャールス・H・アリソンが来日する。昭和5年(1930年)の12月だった。アリソンはコルトとは14歳違い、48歳のときだった。

川奈富士コースNo.13 by Brian D. Morgan『東京・朝霞』の設計をしただけでなく、アリソンは『廣野』も設計し、他にも『霞ヶ関・東』『鳴尾』『茨木』『川奈・富士』の改造案を提供して、翌年の2月には帰国している。わずか3ヶ月たらずの滞日で、彼が日本のコース設計界に残した遺産は絶大だったように思われる。一言でいえば“日本の風土にマッチした戦略的コース設計”だが、図面を作成する、灌漑施設の導入、植栽、西洋芝の選定、土質の分析、土地造成とコース建設の近代的手法のすべてを初めて眼にした日本人には、新鮮な驚きだったに違いない。すでにアメリカでも設計していたアリソンはコース造形の専門シェーパー、G・ペングレース(G. Penglase)まで呼び、『朝霞』の造成にあたらせた。

鳴尾GC by Brian D. Morganアリソンの滞在旅行中に同行した赤星四郎・六郎、大谷光明、藤田欽哉らが本格的な設計家として育つのは、この“アリソン・ショック”のお蔭である。

しかも、アリソンの滞在が短期間なのに、日本の設計界に大きな影響を与えたのはアリソンの芸術を愛する知性とアカデミックな学識があったからだと思われる。オックスフォード&ケンブリッジ大ゴルフ・チームの代表選手の腕前だったが、日本で誇らしげにプレーをせず、大戦中に少佐だったので、“キャプテン・アリソン”と呼ばれて親しまれた。それは、英国紳士の奥床しさと同時に、設計術を肌で学習する大谷や赤星兄弟の学識も豊かな証拠でもあったろう。彼らは英米に留学した経験があり、ゴルフを外国で習得していたからである。

アリソンが設計した『廣野』はイングランドの『サニングデール・ニューコース』に似ているといわれる。コルトが設計した名コースだけに、どこか似た雰囲気があって当然だろうが、赤星六郎の『我孫子』や大谷の『東京』などに『廣野』の雰囲気が漂うのもまた当然なのだ。設計家の感性と個性がコース造形に現れるからで、コースの歴史は設計家の系譜の歴史でもあるからだ。そして、日本的林間コースの典型はこうしてアリソンが土台を構築して現在に至っている。これを思えば、『東京・朝霞』と『廣野』が設計料として支払った3,000ポンドは安い授業料と言わなければならないだろう。

“アリソン・ショック”は大谷、赤星兄弟だけに止まらず、その次の世代、井上誠一や上田治にも波及した。と言うよりアリソンの存在が二人の若者を設計家への道を歩ませる跳躍台になったのだ。日本人コース設計の専門家が育ち始めるスタート・ラインがここに引かれた。

井上は東京赤坂の眼科医の家に生まれ、将来医者になる予定を嗜眠性脳炎を患ったため、川奈で療養中、アリソンの仕事振りに触れる機会を得る。『霞ヶ関・東』の設計を手掛ける藤田欽哉の下で、アリソンの改造案にも遭遇したはずだ。だから、『霞ヶ関・西』の造成工事に参加して、設計家への道を歩き出す井上にアリソンが間接的に影響したに違いない。設計の先輩は藤田だが、アリソンこそ彼の理想の設計家像だったであろう。

井上の生存中に東京練馬の書斎にお邪魔したことがある。壁に『東京・朝霞』の設計図面が貼られており、「日本一のコースだった」と大戦で消失した幻の名コースを説明してくれたことを思い出す。

だから、その後の井上が『那須』『大洗』『日光』『龍ヶ崎』と日本を代表するコースを設計して、第一人者となるのは、海外の資料を渉猟した独学の結果だが、いつもアリソンの描いた『朝霞』の図面が念頭にあったに違いない。『霞ヶ関』のメンバーで日本アマ選手権にも出場していた腕前の井上が戦略型コース設計に目覚めるキッカケはアリソン設計を学んだ結果だったと思われる。

もうひとりの上田は『廣野』の造成中からアリソン設計に肌で接した。神戸オリエンタル・ホテルで描いた設計図を残して帰国したアリソンはコースの完成を知らない。詳細図面を基に造形工事を陣頭指揮したのは初代キャプテンの高畑誠一と伊藤長蔵だった。そして、芝生関係の専門家として招かれたのが京大農学部を卒業したばかりの上田青年である。コース完成後も戦前から戦後にかけて約14年間、『廣野』の支配人を務めた。大戦中に一度畑と化したコースを乾豊彦理事長が復興する工事に参加した上田がコース設計家を目指すようになるのも自然の道理であろう。

偶然なことに、ハリー・コルトもアリソンも設計家になる以前に『サニングデール』と『ストークポージス』のセクレタリー(支配人)職にあった。上田がアリソン設計のコースを守る職から設計家になったのはただの偶然だろうか?

だから後に、“東の井上、西の上田”と設計の名匠としてならび称された二人のモチベーションがアリソンにあったことは疑う余地がない。

ただし、残念ながら井上・上田が戦略性をコースに盛り込む際に、英国リンクスを実際にプレーして研究した形跡はない。アメリカの初期設計家がこぞってリンクス・コースを研究して、独自の戦略的デザインを開発したような修行過程を経験していないのだ。明治の末に生まれ、70歳過ぎに逝去した二人が、欧米の名コースを視察見学したのは井上が53歳、上田も晩年だった。

そんな海外との交流の出来ない時代環境にありながら、井上・上田の設計コースにはモダンな戦略性豊かなホールが数多くあって、驚かされる。ほとんど土量を動かさず、もとからあった沢地をデザインに取り込んだ『龍ヶ崎』や防風林の松林を垂直なハザードに活かした『大洗』など、井上の考案した戦略性は欧米コースに少しも引けをとらないものだ。上田にしても、『小野』に見られる、鴨池を使ったウォーター・ハザードの醍醐味あるデザインは1961年の作にしてはモダンである。

しかし、残念なことに、二人が活躍した時代は2グリーン・システムが常識で、戦略型設計に日本独特の工夫を迫られた。芝草の管理技術の遅れがコース設計にまで悪影響を与えたことは、日本のコース史に禍根を残す結果になった。

それでも、井上はふたつのグリーンの配置や形状で戦略性を追及したし、可能な場合はワングリーンに高麗芝と西洋芝の2種類を半分ずつ貼って抵抗した。

ともあれ、このように日本のコース設計史を見てくると、アリソンの来日はまるで“ペリー提督の黒船”が鎖国を解きに来た事件に似ている。日本のゴルフが欧米文化の消化・吸収であったことを思えば当然なのだが、コース設計に海外交流が必要とするにはこれくらいのショック療法が必要だった。

そして、もう一つの海外文化との交流現象が、1970年代になってやってくる。アリソンが提案した西洋芝の利用が管理技術の遅れから時期尚早であることが分かり、高温多湿な日本の気候条件にマッチしないという結論が出て、2グリーン・システムが導入されたのである。それにアンチテーゼを掲げる設計家がさかんに来日し始めるのだ。

その最大の功労者は西洋芝のワン・グリーン設計を提唱し、実践したロバート・トレント・ジョーンズ(Robert Trent Jones)親子とジャック・ニクラス(JackNicklaus)&デズモンド・ミュアヘッド(Desmond Muirhead)たちの仕事だった。ジョーンズが『軽井沢72』でワン・グリーンを採用したのは寒地型芝の適地だから当然だが、栃木県の『ニュー・セントアンドリュース』(New St. Andrews)が大きなアンジュレーションを持つグリーンとクリークや池が導入されたホール・デザインを展開し、これに初めて接した日本人ゴルファーの驚きは大きかった。昭和49年(1974年)完成だから、ニクラスがコース設計を始めて間もない頃で、オハイオ州に『ミュアフィールドビレッジ』(Muirfield Village)の設計と同時期の仕事である。ミュアヘッドが先生、ニクラスが生徒という共同設計はこれが最後で、ニクラスはこの後に独立する。

と同時に、“ベント芝のワングリーン”設計が普及したことで、西洋芝の管理技術も格段に向上する。日本人設計家もさかんに“ベント・ワングリーン”で戦略型設計を追求した。井上・上田の弟子筋設計家からトップアマ出身の設計家、グリーン・キーパーやゼネコン出身など多彩な設計家が活躍できる時代の到来となる。

いずれにしても、外国人コース設計家がさかんに来日してコース造りをした背景には1980年代の経済好況があった。会員権の高騰で、デザインに経費を遣っても高額で会員募集が可能な高級接待用コースが量産されたからである。ロバート・ボン・へギー(Robert von Hagge)、マイケル・ポーレット(Michael Poellot)、ピート&ペリー・ダイ(Pete & Perry Dye)、テッド・ロビンソン(Ted Robinson)、デビット・トーマス(David Thomas)、ピーター・トムソン(Peter Thomson)、ロン・フリーム(Ron Fream)など東南アジアで活躍した設計家はほとんど日本市場でも活躍した。日本的庭園風の林間コースにはない、アメリカンタイプ・コースが追加されたのである。俗に言う“ポテトチップス・グリーン”や“ウォーター・カムズ・イン・プレー”を求めるウォーター・ハザードがゴルフ・ゲームの醍醐味を増すことを日本人設計家も一般ゴルファーも知るのである。

こうして、日本人設計家も設計の技術や知識をアメリカから吸収して、日本人としての自然観と美意識で和洋折衷のコース・デザインを展開した。ゴルフ場数が2000コースを超す時代を迎えて競争の原理が働き、より話題性のあるコース造りを経営者が心がけたからだろう。その意味では、“バブル経済”と呼ばれた1980年代の好景気経済も、悪い面だけではなかった。今や日本のゴルファーは戦前の社団法人制クラブの庭園風林間コースから、外国人設計のリンクス・スタイルのアメリカンタイプまで、新旧取り混ぜた多くの中からコースを選べるという選択肢が広がったからである。

日本ゴルフコース設計者協会が今年で、10周年を迎える。1993年に設立した協会は、「プロ設計家の立場を守り、質の向上、正しい思想による設計技術と思想を促進する」という基本精神のもとに歩んできた。

残念ながら、新設コースの需要は長引く経済不況で低下したが、“2グリーン・システム”で造られてしまった既設コースの改造設計など、まだまだ取り組むべき課題が残っていると思われる。それに、グリーン芝の新種、俗に“ニュー・ベント芝”と称される芝草の研究も進んで、日本の気候風土にマッチしたグリーンの普及も急務だろう。

この節目に一度、アリソン以後の日本のコース設計史を検証して、21世紀を展望する糧としてもらいたいものである。
西澤忠
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