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GCA JOURNAL No.8
日本のゴルフコース設計者−赤星六郎 金田武明
芸術に高めた経験と感性


日本のゴルフコース設計の歴史において、はずすことの出来ない一人をあげるとするなら、赤星六郎氏をおいて他には思いつかない。日本のゴルフコースは、彼が「相模カンツリー倶楽部」の設計を手掛けるまでは、見よう見真似の臆病な、平凡で刺激のないものが殆どだった。ご存知のように「相模」は関東地区で戦争の荒波をなんとか潜りぬけて残った6コースのひとつ。1931年(昭和6年)、戦争の始まる嫌な雰囲気の中で生まれた名作であり、日本の文化財的コースである。赤星氏の手掛けたコースは戦前の植民地を除けば、この「相模」と「我孫子」の2コースしかない。アメリカのプリンストン大学に留学していた赤星氏は、1919年に開場したばかりの「パインバレー」の会員でもあった。1924年にはパインハーストゴルフクラブ(1999年、全米オープンが開かれた。故ペイン・スチュワートが最後を飾った試合になった)でのスプリング・トーナメントに優勝し、新星誕生とまでいわれた。ゴルフ技術でも世界のアマチュアに任して遜色のない逸材だった。

当時、米国のゴルフ界は従来のゴルフとは全く違う新しい動きが始まっていた。例えば、米国ゴルフ協会のグリーン研究部門(グリーンセクション)が1920年発足。1921年にはボールの重量とサイズが規制された。バルタスロール(1922年)やウィングフット(1923年)等の名コースが生まれ、1923年にはコース数も1,903と急成長していた。また、スチールシャフトの研究も盛んになり、1926年には米国は新シャフトを認可していた。ボビー・ジョーンズが暗黒の七年間から脱し、1923年にはじめて全米オープンに優勝。ジョーンズ時代が到来した。

新しい息吹をそのまま日本に持って帰ったのが赤星兄弟だった。世界レベルのゴルフに造詣の深い人が初めてコース設計に手を染めたのは、1928〜29年。そして幸運にも1930年暮、英国のチャールス・アリソンが来日し、自分の夢の実現に可能性を感じ取ることになる。芸術的な鋭い感性が日本人コース設計家、赤星六郎氏を誕生させたのである。それまでの日本のコースは、無難であることを目標に造られていた。暗中模索でコースを設計するのだから、文句を言われないように、批判を受けないようにと考えたのも無理はない。赤星氏が頭に描いていたのは、もっと大胆な、芸術的な設計者の個性を発揮したコースだった。

赤星氏はエッセイの中で「一人の日本人が頭に描いていた夢−理想的なコースが、決して専門のアーキテクチャーにさえ負けていないと知ったのは、予想外の収穫だった」とある。この「日本人の頭」とは、赤星六郎氏自身の頭であったに違いないし、ご自身の貴重なゴルフ経験、数多くの名門コースでのプレーで得た感性をコースで表現することの正しさを知ったのだろう。

赤星氏のコース哲学は「ゴルフコースは、一個の芸術として完成されたものでなければならない。設計者その人の性格の表現であり、夢をコースによって具現化することなのである」と語っている。これは1932年(昭和7年)の目黒書店発行のゴルフ誌に発表されたものだ。

“夢”とは何かということになる。「夢といっても単なる空想ではなく、ゴルフの実際に触れ、ゴルフを真に理解することは当然だが、それを芸術として扱っていくところに、尽きない興味‥・命がある。」

こうした説をうかがうと、造詣の深さに敬服する。この数年前、1928年にアメリカではサイプレスポイントが完成している。マッケンジー博士の逸品だが、サイプレスポイントは「ゴルファーの夢を結晶化したようなコース」と評されていた。日本語でいえば「目からウロコがとれた」感じだったのだろう。それまで退屈で、無難なコース造りに終始していた日本ゴルフ界にも、ここで夢を実現する男が出現したことになる。

赤星氏の洞察力は、この夢の実現後まで及んでいる。ちょうどヒッコリーシャフトあ、らスチールシャフトの大転換期でもあったから、赤星氏の豊かな経験と高い技術考察によって、将来を予見するのは容易だったのだろう。

「ゴルフは年々、技術的に進歩の課程を辿っていくのだから、コースもそれに伴って、改造されるべきである」。この改造という意味は、より高度な技術に対応すべきことであり、距離を伸長させたり、ハザードをより戦略的にするということだったことは、米国での改造で実証されている。ゴルフコースは、ゴルフそのものの技術的な進歩の課程を辿るべきで、それに伴って改造されるべきだと理解しておられた。

赤星氏は、アリソンが膝折村に残した東京ゴルフ倶楽部朝霞コースを、「日本ゴルフの革命的な収穫であり、将来、歴史的な価値をもつ」と考えられた。このコースが日本のゴルフ技術を進歩させるに違いないとまで評価されていた。米国では、チャールズ・マクドナルドがナショナルゴルフリンクス(National Golf Links of America)を1911年に完成させ、それ以降のコースに本物志向に教示することに成功していた。赤星氏は朝霞コースを日本でのナショナルと位置づけておられたに違いない。残念ながら、このコースは戦争が始まり、ゴルフヘの圧力の中で踏み潰され、消滅させられてしまった。

「相模(1931年オープン)」「我孫子(1930年オープン)」は、当時の日本を代表するエリートが本格的に取り組み、世界に伍して恥ずかしくない名コースを生んだことになる。深く切り立つバンカーが特色だったコースは距離は短いながら、プロでさえも心して攻めないと、思わぬ肘鉄やパンチを食らう味わい深いものだった。赤星式バンカーは、サンド・ウェッジが発明される2年前に造成されたものである。サラゼンが1932年の全英オープンで使ったサンド・ウェッジは、日本に到着するには、それから10年はかかっていると思われる。

改造という点では、チャールス・アリソンは1930年の来日の折、旧友藤田欽哉氏(霞ヶ関東コース設計者)の作品に手を入れた。アリソンに同行したのは赤星四郎氏だった。数ホールの改造を提案し、東10番の右バンカーは十数倍の大きさにし、深さも三メートルをサジェストした。当時、日本人ゴルファーの技術水準は低く、サンド・ウェッジも誕生していなかった。そのバンカーにつかまったら、脱出は不可能だった。にも拘わらず、藤田、赤星四郎氏等は、アリソンの改造案を実現した。1957年カナダ杯でウエールズのダイ・リースが苦戦し、世界中にこのバンカーを有名にした。25年もたってから、真価を発揮したバンカーは世界でも稀有である。

昭和初期、日本に芽生えそうになった“本物志向”のゴルフがコースとともに抹殺されてしまったのは残念なことである。

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