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GCA JOURNAL No.6
初めてづくしの国際競技、テレビ中継など 金田武明
 

〜霞ヶ閑C.C.のカナダカップから40年〜

カナダカップ(現在、ワールドカップと名称が変更されている)が日本で開催されることになった。1957年10月。もちろん、わが国初の国際試合というのだから、日本のゴルフ界は大騒ぎだった。戦争中、18ホールスだけだった霞ヶ関カンツリー倶楽部が36ホールスに復活し、開催コースにきまった。

その騒ぎの最中、テレビ中継という、とんでもない話が出てきた。ゴルフのテレビ中継は、当時まだ米国でもそれほど歴史は長くなかった。日本テレビの柴田秀利氏から呼び出され、私には留学中に見た数々の試合、前年にプロを世話したカナダカップ(ロンドン近郊ウェントワース)などの経験があるから、テレビの解説をやれという話だった。ついては、テレビ関係の人間はゴルフを知らぬから、いろいろと教える必要がある、そのあたりを覚悟しておけといった調子の説得だった。

肝心の日本代表は、中村寅吉、小野光一という2人の組み合わせになった。せっかちで、何ごとにも積極的な「寅さん」と、対照的にゆったりした「小野ちゃん」の組み合わせは絶妙だった。

寅さんは、自分のゴルフの集大成のつもりで、この試合に焦点をあてていた。

貴重なゴルフ青春時代を戦争で半分棒に振っていたという感覚があったのだろう。寅さんは、本当に歯軋りをするように、必死になって技術をむさぼるように身につけた。パブリックで、誰にも気兼ねしないですむ仙石原で荒修行をした(当時会員制クラブは、プロに自由はなく、うっとうしかったようだ)。それに進駐軍が来るから、英語は学べる、ボールやクラブもアメリカ製の新品が入手できる。ここで寅さんは、雪の日は長靴をはいてゴルフにいそしんだ。

外国遠征をしても、彼だけは本気になって技術を盗んで帰ってきた。しかもその技をすぐに自分のものにすべく、球を打って打って打ちまくっていた。「スニードはよう。こんなバンカーショットで、止めたり、走らせたりするんだ。うめえぜ」と説明しながら、自分はさらに上をいく技につくり替えてしまう。100ヤード以内だったら世界一という折り紙がつくまでになっていた。カナダカップ直前の寅さんは本当に強かった。昔の程ケ谷C.C.で50台で回ったという噂もあった。

霞ヶ関にもよく来ていた。そのころはやったラビット号というスクーターで飛ぶようにやって来る。何か試合があるようなら、今のところ霞ヶ関しかないという寅さん独特の読みがあったようだ。寅さんというのは、ゴルフばかりでなく、生活全般についても、先を読むことに長けた人だとつくづく思わされる。

いよいよ、選手が続々と来日し始めた。

米国からは、サム・スニードとジミー・デマレ。南アはG・プレイヤー、H・ヘニング、豪州はP・トムソン、B・クランプトンなど、それまで名前を活字でしか見なかった有名プロが歩いているのだから感激だった。

スニードは初練習で66。コースレコードを3打も切る好スコアだった。当時の霞ヶ関のグリーンは、従来の芽の粗いコーライ芝。しかも10月末だから、芝日のきつさはひどかった。左傾斜のグリーンでパットが右へ上がって行ってしまうことすらあった。そのグリーンでの好スコア、これは大変だと寅さんに「ご注進」である。寅さんは意外にも落ち着いている。そして、確信をもってポツリと言った。「な−に、本番で短いのを1つミスしたら打てなくなるさ。そうはいかない」強豪スニードといえども人間であり、それをのり越えるにはそれだけの練習をしない限り無理だと知っていたのである。


私は試合前日の朝日新聞に予想を書いた。個人優勝は270〜272(実際には中村寅吉274)、団体優勝は556〜568(日本557)という数字を明記し、日本の優勝の公算は大いにあり得ると書いたのである。

生意気盛りの青年としては、このように具体的な数字を示し、誰も考えなかった日本の優勝を予想して悦に入っていた。実のところ、私には情報があった。強いスニードが初の訪日で、遊びまくっていた。デマレが「奴が今日、パープレイしたら、化け物だよ」というほど楽しんでいた。

いよいよテレビ中継が始まった。解説者として、大先輩の水谷準さんと私が席に座り、画面を見ることになった。

カメラは何とリヤカーに積んでコースを走り回ることに決定。野球中継でボールを追うベテランが、ゴルフボールを追いかけ「よくつかまえたでしょう」と自慢するのには参った。どんよりとした曇り空が多かったので、白黒のテレビで白いゴルフボールがどこを飛んでいるかは一切不明なのである。ゴルファーはスイングを見たいのに、カメラさんはボールばかりを追う。この妙な癖は今でも続いている。本来、ゴルフはモグラの白線で捉えてくれると落ち着く。すずめの日の高さでは全く迫力がない。

現場の情報は、ウォーキートーキーという新兵器を進鮭軍(空軍)から借りることができた。これを若いアナウンサーがかついでコースを走り回り、情報を本部に送るという寸法である。

この肝心な情報が心もとない。「ボールが砂だまりに来ました」、これはバンカーだとわかるが、困ったのは「完全なミスショット。グリーンに乗りません」。画面で見る限り、大ミスとは思えない。ところが「ゴルフはバーオンといって、バー3ならワンオン、バー4ならツーオンするものだ」と教わった人にとって、グリーンエッジに止まるボールは、大ミスショットになってしまったのだ。

初日が終わって若い連中は、ゴルフを知ろうという心意気で練習場に集まった。「じっとしているボールを打つのは楽なもんさ」と思っていたらしい。しかし、振れども、叩けどもボールは飛ばない。たまに当たると、ブーメランのように曲がる。「これは大変だ。さすがに世界一流が集まっているな」と翌日からは、「すごいショットです」の連呼に変わってしまった。

日本組は強かった。

初練習で66を出したスニードも、信じられないような目をしてグリーンを見るようになった。2メートルのパットで左へ落ちるはずのボールが音を立てて5センチも右へ上っていくのだから、頭がくらくらしたに違いない。

寅さんと小野ちゃんの組み合わせは絶妙で、独走し始めた。カナダのスタン・レナード(stan Leonard)は、温厚な紳士だったが、日本のコーライグリーンには手を焼いていた。「決して、言い訳ではないが、日本のグリーンのスピードはおそ過ぎる。少くとも、3倍は早くしないと世界の舞台で活躍できないよ」と説明をくり返していた。決して、負けた言い訳ではなく、世界のゴルフを意識した発言だった。この試合後、ヒメコーライが登場し、日本のグリーンも新しい方向に踏み出し始めた。

日本の優勝は、芝生のせいではなく、中村寅吉の執念が個人杯までも獲る大成功となったと思う。

かくして、日本は第2位の米国を9打離して圧勝。寅さんはスニード、プレイヤーに7ストローク差で個人優勝した。

初のテレビ中継も無事終わり、リヤカーに積んだカメラの映像は、今でも残っている。

最終の3、4ホールスではなくて、18ホールスを追い回した情熱は、ゴルフ史の1ページを飾るに十分な熱さをもっている。

私は当時の雑誌に感想を書いている。あまりにもあっさり世界的な栄誉を勝ってしまったために、国際的な活躍が安易と思ってはならないと言っている。だから、日本は、これから茨の道を歩くことを覚悟すべきだと警告している。1950年代の日本のスイングは、残念ながら世界に伍し得るものではなかったからである。

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