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GCA JOURNAL No.2
ゴルフ・コース設計史 金田武明
第2話アリスンの足跡とその影響


1930(昭和5)年12月1日、チャールス・ヒュー・アリスン(Charles Hugh Alison)が日本に到着した。東京ゴルフ倶楽部の新コース設計のためだった。

東京倶楽部の駒沢コースは借地で始まり、その後買収するには高騰していた。1914年に9ホールでオープンした駒沢は4年後には移転を考えざるを得なかった。この朝霞移転を積極的に働きかけたのは、大谷光明だった。程ヶ谷(1923年設立)のフォバーグ(Walter Foburg)設計は当時としては合格だったが、欧米の名コースを知る大谷はもうひとつ上を狙っていた。しかし、外国の一流設計者に頼むには費用がかかる。それでも川崎肇が賛成してくれたので、大谷はその気になる。

当初、彼が白羽の矢を立てたのはハリー・コルト(Harry Shapland Colt)だった。

設計料は1500ポンド(邦貨2万円 往復旅費と滞在費含む)、またフォアマンとして米国からジョージ・ペングレース(George Penglase)を400ドル(月額で期間6ヵ月予定、邦貨800円)で呼んだ。朝霞の新クラブハウスが当時としては破格の10万円〈普通は1万5000円前後)だったが、それに比較しても大変な額であった。

しかし、肝心のコルトは61歳の高齢を理由に長旅を辞し、パートナーのアリスンを指名してきた。大谷は悩んだ。土地買収に100万円近い資金が要る上に、未知の設計者に大金を払わなければならないからだ。

結局、名誉書記の白石多士良と一計を案じ、8月の猛暑の中理事会を招集、反対する老理事たちが軽井沢へ避暑に行っている聞に、アリスン招聘を決議してしまう。大谷は「クラブだけの問題ではなく、日本のゴルフ界に必要だと信じていた」と述懐している。

こうして、アリスンの来日が決定した。

コルトもアリスンも一流のアマチュア・プレイヤーで大学ゴルフ・チームで共にプレイしている。コルトはプロ出身ではない最初のコース設計者で、植栽を考え、設計図を使った最初の人であった。アリスター・マッケンジー(Alister Mackenzie)やアリスンを育てたのも彼だった。だから、コルトの思想を忠実に身につけたのがアリスンであり、日本の依頼を受けたのはコルト・アリスン&モリスン社(1928年設立)だった。コルトが英国国内、アリスンは極東と米国と分担していたようだ。1920年に二人は共著で『Some Essays On Golf Course Architecture』を発表している。この二人のパートナーシップは堅固だったと見ていいだろう。


アリスンの東奔西走

来日したアリスンはすぐにコース予定地の朝霞に出かけ、歩き回った。同行した大谷や赤星六郎は、彼の風貌から老人と思ったようだが、時にアリスンは48歳、精力的に働いた。その後、測量図面を手に彼は帝国ホテルの一室に閉じ籠り、10日間ほど面会謝絶で図面を仕上げた。連絡があって、大谷、赤星、岩永裕吉(同盟通信社社長)の三氏が訪れ、一部完成の図面を見たという。

朝霞コースの予定地は平担な地形で、武蔵野特有の雑木林と随所に松の巨木がある方形の20万坪だった。それだけに料理の仕方でどうにでもなり、設計者の才能が問われるものだった。結局、西洋芝を導入し、バックティから6700ヤード、人夫6万人、起伏をつける土量1万リューベ、土地代を除いたコース造成費30万、ハウス10万の朝霞新コースは1932(昭和6)年に完成する。このプロジェクトに参加したゴルフ知識のレベルの高い人々がすべて感激する出来栄えだった。

話をもとに戻して、アリスンはこの滞在中に関西の広野ゴルフ倶楽部からも設計依頼を受ける。西下の途中、川奈に寄る。この当時、すでに大島コースは大谷光明設計で1928年にオープンしていた。

偶然ここで静養していたのが若き日の井上誠一だった。アリスンと合ったのではないが、少なくともペングレースの仕事ぶりは見たかも知れない。井上は「昭和4、5年に外国の設計土が来たのを知った」と書いている。これは彼をコース設計の道へ進ませる契機になったと推測していいだろう。

偶然は恐ろしい。井上が初仕事として霞ヶ関西コースを手伝ったとき、メインアーキテクトは藤田欽哉だった。藤田は英米に明るい関係でアリスン、コルトと知り合いであったらしい。この点、謙虚で寡黙の藤田はあまり話してくれなかったが、霞ヶ関東コースについてアリスンが改造アドバイスしたのも藤田との友情の賜物だったと思わざるを得ない。

アリスンの霞ヶ関訪問は12月16日、翌年2月末に9、10、14、17、18番の改造が完了する。

関西のゴルフ界には高畑誠一がいた。高畑は第一次世界大戦時、鈴木商店ロンドン支店長で、名門アディントンの会員でもあった。

つまり、彼は一流の事業家であり、ゴルフに関しては徹底した純粋主義者だった。

その高畑が帝国ホテルにアリスンを訪ね、広野の設計を依頼する。設計料は簡単なルーティグだけなので、500ボンド(邦貸約6000円)。しかし、結果的に詳細図も描いたので、1万8000円になる。

さて、設計図面を実際の土地におろす段階で、重要な人物が登場する。

伊藤長蔵である。残念ながら、彼のバックグラウンドは不明だが、1925年、大谷光明と世界名コース巡りをし、ロンドンで『GOLFERS’TREASURES』という小冊子を発行している。(この本はゴルフ名著のアンソロジーだったが、著作権の誤解で、発禁となる)

朝霞の造成を担当したペングレースの役割をこの伊藤長蔵が果たすのである。その助手を務めたのが後のコース設計家、上田治だったことにも運命的なものを感じる。

伊藤はアリスンの残した図面を読みながら、7〜8年前に自分が訪れた名コースに想いを馳せたに違いない。バンカーとグリーンの形は自ら撮影した写真を参考にしたと述懐している。この造成工事には高畑誠一も参加した。時には、二人の間で激論を戦わせ、バンカーの高さや形状を決めていったようだ。

さらに、高畑はベント・グリーンを提唱し実行する。英国では常識でも、当時の日本では唐突に聞こえたに違いない。伊藤は朝霞に足を運び、西洋芝導入に研究、実験していた相馬孟胤に教えを請うのである。

こうして、数々の試行錯誤の末に、英国人コース設計家アリスンの思想を反映した本格的コースが日本に誕生した。

しかし、歴史的観点からすれば、その成育期間はほんの一刻に過ざなかった。日本がやがて大戦に突入していったからである。


赤星六部の洞察

アリスンの日本滞在中に彼と接触し、その仕事ぶりに最も影響を受けたのは赤星六郎だったと推測される。ともに名プレーヤーであり、コースのあるべき姿に独自の思想哲学を持っていたからだ。アリスンは建築の設計家出身だが、コース設計に対する最大の関心はコンセプトであり、美を生むことだった。赤星は兄四郎と我孫子を、単身で相模を設計したが、彼の主眼はプレイアビリティとショット・バリュー、戦略性といった次元にあった。赤星がアリソンの設計を見て、「私の考えていたことが誤りでなかったと確信させてくれた」と書いていることからもそれは推測できる。その上、赤星は「日本人ならではの繊細な神経と、美意識を働かせれば、世界に誇れる名コースを生み出すことも可能だろう」と言っている。

上田治は、広野の戦後復興に尽力して何かを学び、井上誠一は設計、造成の定石を掴んだのだろう。大変に感性の鋭い性格の井上がじっくりと観察し、その後の活躍に結びつけたと考えるのが順当である。
 
残念ながら朝霞は今ない。しかし、アリスンの残した足跡は、広野、川奈富士、茨木旧、鴫尾、霞ヶ関東などに残されている。“アリスン・バンカー” という一語だけで、アリスンの遺産を見過ごしてはならないと思うのである。

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