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GCA JOURNAL No.1
ゴルフ・コース設計史 金田武明
第1話日本の黎明期


わが国のゴルフ・コース総数は約2,000、と言われる。この数年間に500以上のコースが生まれたことになる。戦争直後、機能していたコースが十指に満たなかったことを思うと驚異的な伸長である。

これほどの発展は、19世紀末から20世紀初頭にかけて米国に起きたコース・ラッシュだけである。1894年に20コースだった米国のコース数は1898年に611、1900年には1,000コースに膨大しているのだ。もっとも当時のコース設計とは、数多くの杭を運ばせながら設計者が原野を歩く。ティ、グリーンに杭を打ち込む作業は2〜3時間あれば十分だったというのだから内容的にはまったく次元の違う話なのだが‥‥‥。

世界のゴルフ史をよく見ると、コースの発展はその国の経済と比例し、同じ上昇曲線を描いていることに気がつく。

英国の場合は、産業革命によって国力が充実した19世紀に入ると国内ばかりでなく、植民地にもコース造りが始まった。むろん国内でも新しいコースが必要になり、リンクスランドばかりでなく、インランドにも造成されるようになっていった。

ただし、米国は大英帝国発展の一環としてではなく、スコットランドから移住したプロ達の手を通じて直輸入した。他の国々が英国に追従していた時代に、米国だけは過去の因習から離脱すべきだと、1901年、R.H.ロバートソンは米国ゴルフの独立を宣言している。

19世紀後半になって、米国の国力は飛躍的に伸長した。今なお現存し、古典的コースとして名高いものが20世紀初頭から1930年代の経済大恐慌が起こる間に生まれていることからも、それはよく分かる。産業革命では英国に遅れをとった米国が経済復興を遂げ、大国になったと同時期に内容あるコースが続々と生まれたのだ。

世界のゴルフ史の中で、コース設計史を考える場合、4つの時代に分けられる。

1.リンクスにコースが自然発生した神代の時代。2.19世紀後半から設計家が輩出し、基本的思想把握の時代。3.黄金時代。4.戦後のモダン・エージである。

1848年にガタパーチャ・ポールが発明されゴルフは大きく変貌したが、1890年頃までのコースの在り方は自然優先時代で、人間がポール・ゲームの醍醐味を意図して造成したことなど皆無だったろう。従って、トム・シンプソンは、この1885〜1900年までを「コース設計の暗黒時代」と定義づけ、自然造形を否定し、醜い人工的コースを批判している。

しかし、20世紀を迎えると3人のアマチュア・ゴルファー兼コース設計家が出現、コース造成に科学的アプローチをし、設計思想を持ち込んだ。ハリー・コルト(H.S.COLT)、ハーバート・ファウラー(HERBERT.FOWLER)、J.F.アバルコロムビー(J.F.ABERCROMBY)の3人である。彼等を筆頭に、ジョン・ロウ(J.LOW)、スチュアート・ペイトン(STUART PATON)などは世界の名コース、名ホールの本質を探り、さらに設計図の採用、芝生に対する研究、排水など近代的コース設計術の基盤づくりを行なった。

この1910年代後半から20年代、すなわち大恐慌までが、「コース設計の黄金時代」である。つまり、専門的コース設計家の出現は比較的新しいことなのが分かる。米国ゴルフ協会(USGA)がグリーン研究を開始したのも1920年であり、総合的な研究、本格的コース造りがこの時期に行なわれることになった。だから、コース設計と造成だけに限ると、英国より米国の方が積極的であり、かつ実効を上げている。地形も植性も異なり、人工的にコースを誕生させる必要条件があったからである。

日本のゴルフ・コースに目を転じると、米国の「コース設計黄金時代」の恩恵に浴したと言えそうだ。日本ゴルフ界の先達は幸にして高度な知識を持っていたので、世界の主流と遠い存在ではなかった。

東京ゴルフ倶楽部が駒沢から朝霞へ移るとき、ハリー・コルトを設計家として白羽の矢を立てたのもその理由のひとつだ。結局、コルトは高齢であることを理由に、高弟チャールス・アリソン(CHARLES ALISON)を代理に訪日させた。1930年、大恐慌前夜の話である。

アリスンは軍に徴用され、幻のコースとなってしまった朝霞コースの他に、霞ヶ関東コース、川奈富士コース、大阪茨木、宝塚等の改造そして広野の設計を3カ月の滞在中になしとげて離日、した。スーパーパイザーとして米国からG・ペングレース(G.PENGLASE)を招聘したことも画期的なことだった。

この数年前に米国へ留学し、ゴルフ技術も一流に伍せる日本人が帰国していた。赤星四郎、六郎兄弟である。特に六郎氏は初の全日本オープン(1927年)で、2位の浅見緑蔵プロを10打離して優勝するほどの実力があった。留学中の1924年には、パインハーストでのスプリング・トーナメントに優勝し、「新星生まる!」と米国の新聞が報道した。パインヴァレイの会員でもあり、米国の優秀なコースをプレーし、理解していたと考えるべきだろう。アリソンとペングレースの仕事を手伝った人は大谷光明など何人かいたが、特に赤星兄弟はアリソンを助けながら設計理念を学びとり、啓蒙された点が多かったようだ。

芝生に関してもアリソンは画期的な西洋芝の導入を図った。その日本側の任にあたったの相馬孟胤子爵。彼は帝大植物学部でエバー・グリーンの研究に励み、アリソンや赤星のコース誕生に協力した。英米、特に米国の芝生の権威にガイダンスを依頼してさえいる。残念ながら、日本の高温多湿な気候への抵抗力が弱い品種しかなく、グリーン床構築にも未知だったため、このエバー・グリーン芝への挑戦は失敗に終わる。

私は戦前の日本のゴルフを象徴されたのがこの相馬子爵だったような気がする。エバーグリーンは日本でも可能と信じ、研究を続け、啓蒙に努めた。しかし、1936年3月23日急逝され、その直後エバー・グリーンはブラウンパッチに襲われ全滅してしまった。戦前のエバー・グリーンの研究は相馬子爵とともに消え、ゴルフ界自体も軍靴の音に圧迫され始める。

ゴルフ反対運動、舶来排除の右翼的思想は軍国主義とともに強大となり、日本のゴルフは一気に弱体化してしまった。

皮肉なことに、米国ではゴルフの第二次黄金時代が第二次大戦中に芽生えはじめ、1945年、戦争が終わると大きな、新しいうねりが始まろうとするのである。

次回には、アリソンの日本ゴルフへの影響に触れてみたい。

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