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日本の2グリーンを考える
日本ゴルフコース設計者協会
理事 嶋村唯史
 

近年 ニューベントの台頭でグリーン芝の草種変更の工事が多くなり、1グリーンのゴルフ場も60%を超えたようです。
歴史が経つとゴルフ場の正しい知識も継承されなくなるようですが、ゴルフ場関係者なら基本的で正確な知識は持っているべきです。そこで1グリーンへの移行が現状の流れとなっている中で、なぜ日本に2グリーンが定着したのか、まずその経緯を検証してみることにいたしました。そこでかつて当協会の理事長を務め、著名なゴルフジャーナリストでもあった故・金田武明氏が2グリーンの導入経緯について考察された文章があるので、参考までに一部省略して掲載することといたしました。

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日本の2グリーン事始め

金田 武明

2グリーン・コースが存在するだけでなく、公式競技の場として市民権をもっているのはゴルフ先進国の中では日本しかない。
確かに2グリーンの存在理由はある。Transitionゾーンでは、寒冷芝には夏の高温、高湿がきつく、コーライ芝の休息期間(秋から春)が長過ぎる。

日本式と米国式

日本では2グリーンが発達し、米国ではグリーン構造そのものを根本的に研究したこの二つの国の考え方は妙な例えだが蚊への対処でも大きく異なる。日本は蚊に対して美しい蚊張を考え、蚊張の装飾に贅をこらした。米国は蚊そのものの発生原因をつきとめ、水たまりの処置、殺虫剤を開発した。
これと似た考え方が、日本の2グリーンであり、米国は60年の年月をかけて開発したUSGA方式だった。長年の研究蓄積の成果であるUSGA方式の導入によって、日本のゴルフ界もよりよいグリーンが存在するようになった。

日本でのエバーグリーン

戦前のエバーグリーンといえば相馬孟胤子爵の名をあげねばならない。1929年、東京クラブのグリーン委員長を仰せつかった相馬は、以前にもまして、コース、特に芝生に責任を感じ始めた。
コースを歩き回って観察するのが相馬の日課になっていたようだ。そして、その年の11月末、枯れた芝草の中に常緑芝をみつけたのである。後日わかったことだが、1919年頃、岩崎小弥太男爵が、英国から洋芝の種子をとりよせ、何となくあちこちに播いた芝生の生き残りだった。相馬氏は、常緑芝を採収し培養し、翌年その種子を帝国大学植物学教室で鑑定を受けた。これが、日本でのエバーグリーン研究のはじまりだった。
偶然にも、この年(1930年)12月1日にチヤールス・アリスンが日本に到着した。目的は、東京クラブの新設コース、朝霞コース設計のためだった。

霞ヶ関西コースのベント・グリーン

霞ヶ関の発足は予想以上の会員数を得たため、1930年には西コース造成案が提出され、しかもクリーピング・ベントのグリーンという画期的なものだった。
相馬氏の知識は高かったが、現実には、霞ヶ関の西コースのベントグリーンが、初の本格的な作業だったと考えられる。
相馬氏は芝生の種類を決定するにあたり、過去5年間の気象条件をアメリカに送り、リコメンデーションを依頼している。結局、このほかにも、駒沢での実験の結果を考え、慎重に種子を選んでいる。

日本のエバーグリーン元年

1932年は、日本でエバーグリーンが美しい姿を見せ、ゴルファーを魅了した年だった。しかし、残念なことに、エバーグリーン元年は、その夏の酷暑のおかげで2グリーン元年にもなってしまった。

1932年
朝霞 5月開場 8月ブラウン・パッチ発生
霞ヶ関・西 6月完成 8月全滅
広野 6月19日開場 8月問題発生
相模 4月グリーン播種 8月全滅

東京クラブは、ブラウン・パッチが発生したものの、相馬氏の献身的なる努力のおかげで若干延命した。しかし、霞ケ閑は、ベントグリーンを直ちに閉鎖し、西コースに高麗芝の第二グリーンを造成するのである。
朝霞コースは、1934年にコーライ芝のサマーグリーンを造成したが、相馬氏は断腸のおもいだったようだ。相模は32年、8月にグリーンが全滅すると、すぐに自生芝、絹芝を養生して予備グリーンをつくりナーセリーでケンタッキー・ブルーの成育にも成功した。
1935年になって、霞ヶ関は、本グリーンをコーライ芝とし、第二グリーンをベント芝という2グリーンのパターンをつくりあげた。

36年2月23日、相馬氏の急逝

エバーグリーンの大黒柱で羅針盤だった相馬氏の急逝は、ゴルフ界にとって大きな衝撃。しかもその3日後、2・26事件が起こった。
社会環境はゴルフにとって悲観的なものに急変して行く。このクーデターは大雪の中だったことは、私も記憶しているが、霞ヶ関東コースの雪は50日間も融けなかった。暑さに弱いベントだけでなく寒さに弱いコーライ芝を経験することになった。
TransitionZoneの難しさを急に経験したのが、日本のゴルフ界だったのである。ベントグラスに対する自信のなさは、この当時の苦い経験から生まれたのではないだろうか。

井上誠一氏とグリーン

霞ヶ関のクラブ史の中で1954年、西コース設計を井上誠一氏に依頼とあり、さらに、1955 年の予算の中にベント床300万円、グリーン422万円、ハウス9380万円、という数字がでている。どうやらこの頃に、戦後の西の2グリーンが井上氏によって実現していたのだろう。
井上さんは、注意深い方で、1932年のベントグリーン全滅を経験されておられたから、2グリーンを採用なさったのだと思う。しかし、井上さんの理想は、勿論、1グリーンだった。
ベントは夏に弱いという説は嘘ではない。しかし、しっかりしたグリーン構造と高度なメンテナンスという二つの条件が揃えば問題はない。事実、米国の高温高湿地帯でも、ベント・グリーンばかりでなく、フェアウェイ、ラフにブルー・グラス、トールフェスキュー、レッドトップが広く使用されている。
USGA方式が、正式に発表されたのは、1960年である。そして、1970年になって、漸く完成に近い方式となった。残念ながら、この近代技術を井上さんは、日本で実現される機会がなかったのである。
現在、井上さんがご健在なら、何のためらいもなくベントの1グリーンとなさったろうし、そうであったら、世界に誇る日本のコースが生まれていたに違いないと信じるのである。

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この文章を読むと当時なぜ2グリーンにせざるを得なかったのか、その時の設計者の立場など洋芝導入時の先人の苦悩が心に迫ります。特に初めて日本のコースに洋芝(ベント)導入を考えた相馬氏の苦労、氏を中心とした先人達の秘話はまさに苦悩のカルテを見るようです。1グリーン思考は長い歴史から見れば元に戻ってきたとも考えられます。無責任なオーガスタシンドロームに惑わされることなく再度、主体性を持って日本の素晴らしいゴルフ文化を先人の足跡とともに見直したいものです。

 

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