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月刊ゴルフマネジメント Architect's Corner  2010 Feb. 協力:一季出版(株)
ゴルフ大衆化の先駆者たち
日本ゴルフコース設計者協会
理事 倉上 俊治
 

今日我が国のゴルフ場は2,450コースを超え、年間の利用者も9,000万人以上となり、ゴルフは国民的なスポーツとなっている。IOC総会でゴルフが2016年のオリンピックから正式競技に決まり、ゴルフ界にとってはゴルフ振興、活性化につながる絶好の機会である。
日本のゴルフは1903年(明治36年)、神戸ゴルフ倶楽部の誕生以来106年になる。明治時代に3コース、大正時代に18コース、昭和時代は戦前までに69コース計90コースが誕生し、その間廃止になったコースも多かった。ゴルフは特権階級のスポーツとして発展してきたので、倶楽部の入会金は高く一般社会人にとっては高嶺の花であったが、ゴルフの名手でありゴルフ文献のコレクターでもある西村貫一が1929年(昭和4年)、「アサヒ・スポーツ」誌(5月15日付)に「ゴルフの民衆化」と題する一文を載せた。この一文が我が国で最初にパブリックゴルフ場の必要性を説いた記事である。
1931年(昭和6年)には内務省勅任技師の折下吉延が、「都市公論」8月号に「長年金持ちの遊びと思われたゴルフも、一般民衆の与えるゲーム目録の内に入るのは近いことであろう」と予言し、「米国のゴルフの民衆化の原因はパブリック・コースのお蔭であって、最近の調査によると173都市におけるパブリック(市営)コースは256を超えている。(中略)我が国のゴルフ場は外地を含めて100近くもある。しかしこれらは大部分が倶楽部組織であり、公共の経営するものは僅かに長崎県雲仙ゴルフ場あるのみである。ゴルフの民衆化は大都市の市設リンクスに俟つべきことは米国の例を見ても明らかである」と書いている。この当時、東京近郊のゴルフ場の入会金は200〜1,000円が普通で、学士会、多摩、浮間ヶ原ゴルフ場は20〜50円で大衆化の兆しがあった。本格的な倶楽部では会員同伴でなければプレイ出来ず、プレイ料金も2〜5円と高額であった。
折下吉延がパブリックゴルフ場の必要性を説いた1931年(昭和6年)、学士会ゴルフ倶楽部が結成され入会金20円で会員を募集した。荒川河川敷の10万坪に折下のコース設計で9ホールのコースが造成され、ハウスは東大工学部教授の岸田日出刀が設計した。コースの全長は2,725ヤード、パー34で、打ち放し練習場と160ヤードのアプローチ練習場を設けた。しかし翌32年会員からの要望でコース改良を行い全長3,130ヤード、パー35になった。33年には会員が急激に増加して9ホールでは狭くなったので18ホール、全長6,490ヤード、パー72の本格的なコースになった。しかし戦争の影響で他のゴルフ場同様に1943年(昭和18年)閉鎖された。この赤羽コースの入会資格は学士会会員に限られ、誰でも入会できなかった欠点があった。しかしゴルフ大衆化の一端を担った低入会金、低プレイ料金のコースが、後に河川敷ゴルフ場の見本となり影響を与えたことはゴルフの歴史に留めたい記録である。

大正、昭和のパブリックゴルフ場

長崎県雲仙ゴルフ場は1913年(大正2年)の開場で、我が国で2番目に古い現存コースである。雲仙は温泉保養地として外国人にも早くから知られていて、1911年(明治44年)県議会に諮って温泉地帯と景勝地を含めて県立雲仙公園の設置を決定した。その公園内に日本初の9ホールのパブリックゴルフ場が誕生した。コース設計はメイ・ビュックランドとウオーレス・ダイクマンである。しかし開場当時は利用者も多かったがだんだん減り続け、1919年にはゼロに等しくなった。その原因は県民のゴルフに対する知識が乏しく、プレイヤーは少なく、またコース内で馬の放牧が認められ芝は荒らされていた。このような状況で予算不足の為コースの修理や管理が十分ではなく外国人から苦情が多く出ていた。しかしこのような時代にパブリックとして造られ低料金でプレイできたことに加え、現在も長崎県営ゴルフ場として利用されていることは特筆すべきことであり、神戸ゴルフ倶楽部と共にその歴史的価値は高い。
昭和に入り1935年(昭和10年)大阪府営山田公園ゴルフ場が誕生した。場所は大阪府三島郡山田村(現・吹田市千里ニュータウン内)で京阪電鉄の所有地であった。大阪府は京阪電鉄と10年間無償使用の地上権を得て公園として使用し、公園隣接の一部民有地は賃貸契約を結んでゴルフコースとドライビングレンジ、クラブハウスを建設した。コース設計は伊藤長蔵で全長2,175ヤード、パー32の9ホール、インは同じホールを廻るが、7番と8番のテイーを後に下げてパーを34に増やし、18ホールの総計は4,350ヤード、パー66だった。このコースは練習コースであり大衆化に備えたパブリックコースで、プレイ料金は1ラウンド(9ホール)50銭、2ラウンド以上は1円、キャディフィは1ラウンド35銭と30銭の2種類があり、貸クラブは1セット50銭であった。このような料金設定のために人気は高く毎日80人〜150人の来場者があり、9ホールの増設も考えられたが日華事変以後の戦時体制でゴルフは次第に敬遠されていった。しかし、1935年に大阪府が税金を使って公営ゴルフ場を建設したことは、今日高く評価される。また同じ年、和歌山県紀ノ川の河川敷に9ホールのコースができ、翌1936年には安価な入会金のセミパブリックコースが、大阪市旭区の淀川河川敷に9ホールで誕生した。
ゴルフは英国人によって紹介され徐々に普及したが、西村貫一や伊藤長蔵が本場英国でつぶさにゴルフ事情を調べ、大谷光明も22歳の時に英国に留学し本格的にゴルフを習い帰国後我が国のゴルフ発展に寄与した。また、折下吉延は役人であったが欧米の都市計画、公園、ゴルフ場事情に精通しており、ゴルフの大衆化に尽力し多くのコース設計者を育てた。ゴルフは益々発展して行くと思うが、こうしたゴルフ大衆化の先駆者の功績を忘れてはならない。

西村 貫一(1892年〜1960年)兵庫県神戸市に生れ、1960年(昭和35年)68歳で死去。 1916年(大正5年)頃からゴルフを始め、日本最初のプロ福井覚治について上達し1924年(大正13年)鳴尾ゴルフ倶楽部のキャプテンでハンデイ5であった。また、夫人マサは5年連続関西婦人チャンピオンになった。1930年(昭和5年)「日本ゴルフ史」を書いてゴルフ初期の記録を伝えた。また、ゴルフ文献の収集家としても有名であった。これらの文献は廣野ゴルフ倶楽部内にあるJGA博物館に保存されている。1924年(大正13年)「日本ゴルフ協会」の創立時に伊藤長蔵と共に日本人5名、外国人6名の創立者の1人であった。

伊藤 長蔵(1888年〜1950年)兵庫県印南郡に生れ、1950年(昭和25年)62歳で死去。 貿易商として世界各地を廻りゴルフの外国図書を蒐集した。我が国で初めてゴルフ雑誌「阪神ゴルフ」を創刊したが4号で経営困難になり、大谷光明等の援助を受けて東京に事務所を設けて「ニッポン・ゴルフドム」と改題して発刊した。ゴルフが知られていない時代に記録を残した恩人である。

折下 吉延(1881年〜1966年)東京都に生れ、1966年(昭和41年)85歳で死去。 東京帝国大学農科大学農学科を卒業した我が国の造園界の先駆者である。1926年(大正15年)創設された武蔵野カントリー倶楽部(大谷光明設計)の理事、コース管理指導を行う。ゴルフ場設計は学士会赤羽ゴルフ場、台湾・高雄ゴルフ場、満州・鞍山ゴルフ場などがある。

 

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