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月刊ゴルフマネジメント Architect's Corner  2005 July. 協力:一季出版(株)
アリソンの来日とその設計コース
日本ゴルフコース設計者協会
監事 倉上 俊治
 

日本におけるゴルフの発祥は1901年、英国人のアーサー・H・グルームが兵庫県六甲山麓に4ホールのコースを造ったことに始まる。現在の神戸ゴルフ倶楽部六甲コースである。ゴルフ誕生から29年後、日本のゴルフコース設計の基礎を築いた英国人、チャールズ・H・アリソンが来日する。

(1)朝霞コースの設計
東京GC駒沢コースは、地代値上げ問題が再燃したため駒沢を棄てて埼玉県膝折村に移転を決定し用地取得が始まった。新コースは世界一流の設計家を招いて、国際的にも通用するコースを造りたいと願っていた。当時、日本においても名前の知られていた英国人、ハリー・S・コルトに依頼することを決め、会員の岩永祐吉が、友人のロンドンタイムスの記者でゴルフ評論家のバーナード・ダーウィンを通じてコルトに来日を懇請した。しかしコルトは高齢を理由に固辞し、代わりに自分の設計事務所の共同経営者で、弟子のC・H・アリソンを推挙したのである。
かくしてアリソンは30年12月に来日し、朝霞の新コース設計に着手した。敷地は21万5千坪(71ha)で、ほとんど平らな雑木林と松林の理想的な用地であった。コンター入り図面に約1週間かけて、コースレイアウトを完成させた。

アリソンの設計は用地の西北隅にクラブハウスを配し、アウトはクロックワイズ(時計廻り)、インはアンティ・クロックワイズでクラブハウスに戻るレイアウトで、全長6700ヤード、パー74であった。各ホールは既存の雑木林、松林を生かし、バンカーは112カ所、うちグリーン周りに50カ所を配し、ブラインド・ホールは無く、フラットであるため大きなマウンドを各所に設け、池は3番のショートホール以外設けなかった。

武蔵野の平地林に囲まれ、ゆったりとしたコースレイアウトであった。現地調査を行った時アリソンは細かく地質調査を指示したが、コース築造、土木排水、芝草管理のために、この作業が必要であることを教えたのである。

朝霞コースの工事監督は米国のジョージ・ペングレースが行い、倶楽部からは子爵相馬孟胤とグリーンキーパーの町田義雄が補佐した。シェーパー兼スーパーバイザーのG・ペングレースを招いたことは、築造技術を知る上で大きな収穫となった。また、アリソンのアドバイスで全面的に西洋芝を採用し、グリーンはココスベント、ティーはケンタッキー・ブルーグラスとレッド・トップの混播、フェアウェイはケンタッキー・ブルーグラスとレッド・トップ、ヤローの3種混播、ラフはコウライ芝を張った。西洋芝管理のため灌水用パイプを敷設し、散水に万全を期した。

32年5月1日に朝香宮総裁殿下の始球式による開場式が行われたがその後、36年の大旱魃や降雨のためコースは大被害を受け、38年の春にフェアウェイをコウライ芝に張り替えた。朝霞コースは開場以来、多くのイベントが開催されたが、41年にコースを陸軍の要請で売却して閉鎖となった。

(2)広野コースの設計
広野コースは兵庫県志染村にあり、31年1月アリソンは広野の用地を見て名コースになることを確約し、神戸オリエンタルホテルで1週間かけてコースレイアウトを完成させた。

コースの敷地は東西に長い三角形で、東西に2本の谷が走り、その西端は大きな池である。敷地の東端にクラブハウスを置き、アウトはクロックワイズ、インはアンティ・クロックワイズでクラブハウスに戻るレイアウトとし、自然の美しさと地形を最大限に生かした全長6725ヤード、パー73であった。このコースの5番152ヤードの池越しのショートホールについて、アリソンは「最も美しく見栄えのするホール」と自賛したほど、満足のいく設計だった。

2月下旬に工事着手、工事監督は伊藤長蔵が当たり、上田治がその下にあってコースレイアウトと築造技術を学んだ。グリーンは相馬孟胤の意見でベントグラスを採用し、コース築造では高畑誠一が伊藤を援助した。

32年6月19日に開場し、アリソン設計の二つのコースが東と西に誕生した。その後、戦時の要請に従い芋などの食糧増産に協力し、44年6月1日コースは閉鎖された。戦後、48年6月にインコース、翌年6月にアウトコースを改修し広野は復活した。幸いにも伊藤長蔵と共に監督を務めた上田治が倶楽部の支配人であったので、原設計に忠実にコースを復元・完成することができた。上田は近代のゴルフコースの傾向を考慮して、原設計からティーなどを移動して、全長6925ヤード、パー72に改修した。また、ベントグリーンをコウライに変更したが、現在ではベントに戻されている。

このように、アリソンの設計思想を熟知した設計家の改造で、世界有数のゴルフコースになっている。

(3)川奈ホテル富士コースの設計
静岡県伊東市の川奈ホテル大島コース(18ホール)は、大谷光明の設計で28年5月に開場していた。

富士コースの敷地は当初牧場の予定だったがゴルフ場の適地であることを知り、川奈ホテルの経営者、大倉喜七郎が設計をアリソンに依頼した。海が一望できる雄大で美しい川奈の景観はアリソンのコース理念を実践する最高の舞台となり、全長7048ヤード、パー74のレイアウトが完成した。コース造成の現場監督は農学博士、丸毛信勝が当たり、岩石に悩まされた工事であったが、36年12月6日に富士コースとして開場した。複雑な地形をよくまとめた名コースで、当時東洋一と称せられた。大谷光明設計の大島、アリソン設計の富士両コースは、その後多少の改造が行われたものの、両設計者の優れた作品は今も生き続けている。

(4)霞ヶ関東コースと茨城コースの改造計画
霞ヶ関CC東コースは藤田欽哉、赤星四郎の設計によって既に29年 10月6日に開場していたが、アリソンは両名及び赤星六郎らに伴われ4回視察し、全ホールの改善計画案を赤星四郎に手渡し帰国した。

東コースの改造工事は、井上誠一及びジョージ・ペングレースによって行われ、36年7月に完了した。

大阪の茨木CCはデビッド・フードの設計で25年5月10日、18ホールで開場した。
27年加賀正太郎が改造を行い、その後36年、アリソンの改造計画案により、再び加賀正太郎がコース改造を行った。

アリソンの改造計画書は詳細に書かれており、クラブの役員、工事監督者の優れた努力によりこれらの歴史的なコースが完成したのである。アリソン設計のコース築造に関わった人たちはその後、多くのゴルフコースを設計している。
アリソンの来日はゴルフ界に大きな足跡を残したのである。

アリソンは48歳で来日し、わずか3カ月の滞在で3コースを設計、改造計画も4コースで行った。その後二度と日本の土を踏むことなく、52年南アフリカでコース設計中に倒れ、70歳で死亡した。しかしアリソンの設計思想を反映したコースは、日本の設計家に受け継がれてしっかり根付いている。

アリソンの設計思想は

  • 自然の地形の特色を生かし、コースは自然との調和が図れるよう植物の植生、土壌、水系などの現地調査を行ってから設計する。
  • 各ホールの距離、地形、ハザードの位置、グリーンの形状、アンジュレーションに個性を持たせ、1番から18番ホールまで流れがあり、戦略型のコースであること。
  • 日本伝統の造園技術(特に日本庭園)を学び、コースの造成に生かすこと。
  • コース設計家の使命とは、与えられた地形から最大限の上品と優美を引き出すことである。

これらの設計思想を生かした設計に取り組みたいものである。

 

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